| 年表 |

1912〜1926年(大正)

年号
月日
広布史
詳細/社会
1912
大正元
11/
牧口先生の2冊目の著作『教授の統合中心としての郷土科研究』が出版される。 
1913
02/07
宗門の機関誌『白蓮華』第8巻第2号発行。これ以降、15回にわたって達磨広告を掲載。発行責任者は阿部法運(日顕の父)である。第8巻第10号以降には、御本尊様をあつらえた織物広告が8回掲載。その他、邪宗の広告が平然と掲載されていた。 
大正2

09/

牧口先生、台東区の東盛尋常小学校(現在の東泉小学校)の校長となる。下谷第一夜学校長を兼任。 
1914
大正3
01/20牧口先生の三女ツナが生まれる。 
1916
大正5
05/02牧口先生、新設の大正小学校校長を兼任。 
1917
大正6
臨時教育会議は、国家主義的教育体制をつくりだそうとし、教育界を広く巻き込んでいく。
1918
大正7
02/04牧口先生の長女ユリが小栗誉次と結婚。 
1919
02/16牧口先生の四女きみが生まれる。 
大正8
12/地元有力者の「自分の子どもを特別扱いしてほしい」との依頼を、牧口先生が拒否。政治家を動かして辞職に追いやられる。その後、台東区の西町小学校に異動。 
12/12牧口先生、西町尋常小学校訓導兼学校長となる。 
1920
牧口先生と戸田青年が出会う。戸田先生が、西町小学校への採用を依頼した。
大正9
06/22牧口先生、三笠尋常小学校校長となる。夜学校長訓導を兼任。戸田先生も行動を共にする。三笠小学校は貧困児童を対象にした特殊学校だった。牧口先生は自費を投じて給食制度を導入した。その後、視学と激しく対立。「児童はほとんど皮膚病とトラホームにかかり居らざるものなく、為めに学校にては、日常、薬品を備えて教師自ら治療を施しくれ、また浴室ありて、一週間一回の浴を取らしむ。理髪器械もありて、教師は理髪の任もかね、降雨の折は欠席者多きを以て傘をも備つけて児童に貸与し、草履もまた学校に備えつけありという模様なり」(明治39年の『東京教育雑誌』による)
1921
大正10
02/16
宗門は、飛行機・自動車に御本尊を奉掲してビラを撒き邪宗の者と一緒に太鼓をたたいて唱題し提灯行列を行った。 
1922
01/26牧口先生の養母トリ、逝去。享年79歳。 

大正11

12/19
彦坂信夫(後の阿部日顕)誕生。東京市本所区向島小梅町165番地に生まれる。墨田区向島1丁目〜3丁目の一部をさす番地(本行寺界隈)が相当。第3代会長就任の式典が行われた日大講堂はJR両国駅から徒歩数分の場所で、同じ墨田区内の両国2丁目に当る。
 12/30ソビエト連邦成立。
1923
04/
第59世日亨上人は、『大日蓮』4月号に、「血脈相承の断絶に就いて史的考察及び辨蒙」と題する一文を寄せられている。猊座につかれる3年前のこと 
 04/15牧口先生、白金尋常小学校訓導兼学校長となる 
大正12
戸田先生、教職を辞し時習学館を設立。 
1924
大正13
12/11牧口先生の二男善治が逝去。享年23歳。 
1925
11/20
宗会にて、第58世日柱上人の不信任を決議、辞職を勧告。阿部法運(日顕の父親)が画策した。18日から日柱上人への嫌がらせが続いた。日柱上人は22日に辞意を表明するが、檀家総代らがこれに猛反発。新聞沙汰になるほどの紛争となる。
大正14
12/堀日亨上人が大石寺第59世として登座。→1927年(昭和2年)、宗学研鑚のため隠尊となる。
1926
01/25日柱上人が「宣言」を発表。 
大正15
戸田先生、『推理式指導算術』を出版。ベストセラーになる。 
  

1912〜1926年(大正)

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【参照】 『牧口常三郎』池田諭