年号 |
月日 |
広布史 |
詳細/社会 |
1927 昭和2 | 11/ | 第59世日亨上人が宗内に退座の決意を示して、「告白」と題する一文を発表。★、★ | |
01/02 | 池田先生生まれる。東京都荏原大森町字入新井183(現・大田区大森北2丁目)。 | 池田家は代々の長男が「五右衛門」を襲名する家柄だった。父・子之吉は三男。先生が2歳の時に分家して、東糀谷に転居。 | |
昭和3 |
06/ | 牧口先生、三谷素啓(当時、研心学園〈現・目白商業学校〉校長/常在寺所属・直達講の講頭)氏の折伏により入信。牧口先生のもとを訪れた業界紙記者による紹介だった。 | 牧口家は代々、日蓮宗だった。また、『人生地理学』でも日蓮や親鸞を取り上げていた。 |
06/02 | 阿部法運が正式に管長となる。第60世日開。管長選挙は前年の12月18日に行われていたが、告訴されたためこの日となった。 | ||
06/23 | 日開、伸夫(日顕)を認知(当時5歳)。常泉寺に勤務していた女性(彦坂スマ)に生ませた子供だった。当時、日開は49歳、スマは25歳。 | ||
07/18 | 牧口先生の四男長志が病没。享年19歳。 | ||
08/ | 牧口先生の確信に触れ、戸田先生、入信。 | ||
| 08/28 |
阿部伸夫、桜井仁道により得度。伸夫から信雄と名乗る。 | |
日開、御本尊を誤写。 | |||
1929 |
02/18 | 小笠原慈聞が六ツ坪で御本尊誤写について阿部日開を難詰する。 | |
昭和4 | 05/13 | 総本山第60世阿部日開(日顕の父親)により大御本尊写真撮影の手引きをした由井一乗が総講頭に任命される。 | |
05/31 | 牧口先生の長男民城が病没。享年31歳。 | ||
10/19 | 株価暴落。25日にはニューヨーク株式市場市場最悪のパニック(暗黒の木曜日)。世界大恐慌に発展した。 | ||
1930 |
01/11 | 13年ぶりに金本位制に戻った。聖徳太子をデザインした100円札も同時に発行された。 | |
昭和5 |
04/26 | 共産党員一斉検挙。 | |
09/10 | 米価大暴落。1917年以来の安値。 | ||
09/25 | 生糸大暴落。1896年以来の安値。 | ||
11/14 | 東京駅で特急つばめに乗り込もうとしていた総理大臣浜口雄幸が狙撃されて重傷を負った。1931年8月26日に死亡。 | ||
| 11/18 | 『創価教育学体系』第1巻を発刊。創価教育学会を創立する。新渡戸稲造や柳田国男が序文を寄せた。全12巻になる予定だったが、第5巻から12巻は未刊のまま終わった。 | 「一小学校長たるファーブルは、昆虫研究のために黙々としてその一生をささげた。学問の国フランスは、彼をフランスの誇りであるとして親しく文部大臣をして駕をまげしめ、フランスの名において懇篤なる感謝の意を表せしめた。 一小学校長たる牧口常三郎氏は、あらゆる迫害、あらゆる苦難と闘いつつ、その貴重なる全生涯を費して、ついに画期的なる『創価教育学』を完成した。文化の国日本は、いかなる方法によって、国の誇りなるこの偉大なる教育者を遇せんとするか」(社会学者の田辺寿利が寄せた序文) 第一の鐘(昭和12年まで) |
1931 | 01/12 | 出版記念会(神田教育会館)。十数名しか集わず。教育界の外からの期待は大きかったが、教育界は冷遇をもって応えた。 | |
昭和6 | 03/05 | 『創価教育学体系』第2巻(価値論)を発刊。 | |
04/10 | 牧口先生、麻布新堀小学校訓導兼学校長となり同夜学校長訓導を兼任。 | ||
08/01 | 牧口先生の二女イヅミが尾原金蔵と結婚。 | ||
09/18 | 満州事変。 | ||
1932 | 05/15 | 5.15事件。 | |
昭和7 | 07/07 | 牧口先生、退職。 | |
07/15 | 『創価教育学体系』第3巻を発刊。 | ||
10/03 | 牧口先生の四女きみが病没。享年14歳。 | ||
1934 | 池田先生、羽田第二尋常小学校に入学。 | 翌年から父・子之吉が寝込むようになる。 | |
昭和9 | 06/20 | 『創価教育学体系』第4巻を発刊。 | |
1935 昭和10 | 12/08 | 大本教への第二次弾圧。 | |
1936 | 牧口先生、雑誌『新教』を半年間にわたって刊行。若い教師の支持を得る。 | ||
昭和11 | 02/26 | 2.26事件 | |
05/ | 牧口先生、『新教』5月号にて、元東北帝大教授・石原純理学博士の『科学と宗教』を痛烈に批判。 | 「石原の宗教についての説明は、西洋哲学者の批判の対象になっているキリスト教とそれに類似せる宗教についてであって、そこには、仏教が全く包含されていない。これでは、宗教と科学の関係を論じたことにならない。ことに、仏教そのものは、宇宙の法則、自然の法則、人間の法則を究明することを最大目的としているということを知れば、宗教と科学は同一線上にあることを知る筈である」(主意) | |
08/ | 政治家古島一雄、元外交官の秋月左都夫の協力援助などもあって、研究生制度を発足。 | 研究生制度というのは、教育に熱心な日蓮正宗信者の教員6名を選んで、月額10円を給付し、自主的研究活動を行なわせるというもの。 | |
08/13 | 第1回夏季講習会(総本山大石寺)開かれる。 | ||
11/26 | 山崎正友誕生。岡山県岡山市に生まれる。 | ||
1937 昭和12 | 12/ | この年、創価教育学会の発会式が行われる(麻布の菊水亭/60人)。正式に牧口会長、戸田理事長となる。古島一雄氏と秋月左都夫氏らが顧問に。 | 古島は、犬養毅とつねに政治行動を共にした男で、明治44年以来昭和3年まで衆議院議員を務めた。護憲運動で大いに活躍。牧口に協力したのは、この不遇時代である。戦後は、政界の指南番といわれた男。秋月は、明治時代に活躍した外交官、オーストリア特命全権大使の時など、各国の小学校を視察してまわるほどに教育問題に強い関心を示した男で、牧口の「創価教育学」に感動し、それ以後、彼ならびに創価教育学会の強力な後援者となった。(池田諭による) |
12/ | 創価教育学会第1回総会(参加者50名) | ||
07/07 | 盧溝橋事件がきっかけで日中戦争始まる。 | ||
1926(昭和元年)〜1937(昭和12年)