1945年(昭和20年)〜1951年(昭和26年)
年号 |
月日 |
広布史 |
詳細/社会 |
1945 |
06/17 | 大石寺大客殿焼亡。第62世鈴木日恭が焼死。 | |
昭和20 | 日顕、海軍中尉で復員。 | ||
06/17 | |||
07/03 | 戸田先生、豊多摩刑務所を出獄。午後7時。 | ||
07/16 | 米国ニューメキシコ州で世界初の核実験。 | ||
08/06 | 午前8時15分、原子爆弾リトルボーイが広島に投下。 | ||
08/09 | 午前11時2分、原子爆弾ファットボーイが長崎に投下。 | ||
08/15 | 太平洋戦争の終結。 | ||
10/24 | 国際連合発足。 | ||
1946 |
01/01 | 戸田先生による法華経講義始まる(西神田の本部にて)。 | |
昭和21 | 03/ | 名称を「創価教育学会」から「創価学会」に改称。 | |
04/12 | 第2期法華経講義。月曜と金曜に行われる。水曜には、「立正安国論」、「開目抄」の講義。 | この頃から、都内や地方の一部で自然発生的に座談会が開催されるようになる。 | |
05/01 | 再建第1回の幹部会、役員会。10数名が集い、綱領、規約を発表。東京10ヶ所、地方5ヶ所の支部を設置。席上、戸田先生は獄中で作られた「同志の歌」を歌う。 | ||
05/05 | 戸田先生、小泉宅での座談会に参加。出獄後、初めての参加。 | ||
1947 | 1949年にかけてベビーブーム→団塊の世代680万人が誕生。 | ||
昭和22 |
05/13 | 日顕、東京・向島の本行寺住職となる。 | |
05/30 | 池田先生の長兄・喜一の戦死公報が届く。昭和20年1月11日、ビルマにて戦死。享年29歳。 | 2・1スト | |
08/14 | 池田青年、戸田先生と出会う。蒲田・三宅ゆたか宅。 | ||
08/15 | インド、独立。 | ||
08/24 | 池田先生入会。小平芳平教学部長らに付き添われ、東京・中野の歓喜ォ(後の第65世日淳上人が当時の住職)にて。 | ||
10/19 | 創価学会第2回総会。出席された堀米日淳上人(ただし当時は御登座前)が、牧口常三郎初代会長を偲ぶ内容の講演。 | ||
1948 |
01/30 | ガンジー暗殺。享年78歳。 | |
昭和23 | 05/07 | 「宗報」昭和23年5月7日付 ★ | |
06/ | 「宗報」昭和23年6月号 ★ | ||
08/13 | 池田先生、第3回夏季講習会(大石寺〜17日/188人)に初めて参加。 | ||
09/13 | 池田先生、戸田城聖理事長による第7期法華経講義受講者となる。 | ||
1949 |
01/03 | 池田先生、日本正学館に入社。少年雑誌『冒険少年』(8月からは『少年日本』と改題)の編集に携わる。 | |
昭和24 |
02/ | 池田先生、第7期法華経講義の受講を終了。 | |
05/ | 池田先生、『冒険少年』の編集長となる(第一作は7月号)。 | ||
07/10 | 機関誌『大白蓮華』創刊。 | ||
08/ | 多忙のため、大世学院(現・富士短期大学)を中退(その後、卒業論文の提出が認められ、富士短期大学経済科を卒業)。 | ||
10/25 | 日本正学館の経営が不振となり、『少年日本』の休刊が決まる。 | ||
12/04 | 日本正学館の全社員は東京建設信用組合の社員として業務を始めることとなり、新事業の仕事を開始。 | ||
1950 |
01/23 | 総本山客殿において「富士北部観光懇談会」が開かれた。これを耳にした戸田先生が「登山会」を申し出る。 | |
昭和25 |
05/ | 下旬頃から東京建設信用組合の経営が苦境に。池田先生は外交戦で悪戦苦闘される。 | |
08/22 | 東京建設信用組合の業務停止が決定。池田先生、公私にわたって戸田先生を守り支える。 | ||
08/24 | 戸田先生、法華経講義終了後に理事長辞任の意向を参加者に伝える。後任は矢島周平。 | ||
09/21 | 戸田先生に「古(いにしえ)の奇しき縁(えにし)に仕えしを 人は変れど我は変らじ」との歌を贈る。返歌として二首。「幾度(いくたび)か戦の庭に起てる身の 捨てず持(たも)つは君が太刀ぞよ」「色は褪せ力は抜けし吾が王者 死すとも残すは君が冠(かんむり)」。苦境が続く。 | ||
11/12 | 牧口先生の7回忌法要。 | ||
12/10 | 池田先生、戸田先生の「生死一大事血脈抄」講義を受ける。 | ||
1951 | 01/06 | 『若き日の日記』 | |
昭和26 | 01/07 | 『若き日の日記』 | |
01/21 | 池田先生、戸田先生の「諸法実相抄」講義を受ける。 | ||
02/22 | 池田先生、青年部の代表14名と共に、戸田先生の「諸法実相抄」講義を受ける。 | ||
03/15 | 池田先生、青年部の代表14名と共に、戸田先生の「生死一大事血脈抄」講義を受ける。 | ||
03/17 | 池田先生、機関紙発刊に関する初の企画会(東京・白金台町 戸田宅)に、他3名と共に出席。言論戦の雄となるべき機関紙の役割と遠大な構想を戸田先生が語る。 | ||
03/21 | 池田先生、機関紙の第1回編集会議に出席。 | ||
04/20 | 聖教新聞創刊号発行。月3回の旬刊。池田先生、柏原ヤス理事の紹介記事を執筆。 | ||
05/03 | 戸田先生、第2代会長に就任。向島・常泉寺にて。1500名が参加。席上「75万世帯達成の誓願」を叫ばれる。※ | 第三の鐘 | |
05/10 | 戸田先生による「寸鉄」。 | ||
05/20 | 創価学会常住の「大法弘通慈折広布大願成就」の御本尊下付される。 | ||
05/ | 池田先生、蒲田支部大森地区の地区委員に任命。 | ||
06/10 | 第1回本部婦人部委員会(現在の婦人部)を結成。 | ||
07/01 | 戸田先生による「寸鉄」。 | ||
07/10 | 戸田先生による「寸鉄」。 「創価学会の歴史と確信」。 | ||
07/11 | 男子部結成式(学会本部/180名)。池田先生はこの時、班長として参加。 | ||
07/19 | 女子部結成(学会本部)。 | ||
07/20 | 戸田先生による「寸鉄」。 | ||
08/01 | 「巻頭言」 | ||
08/20 | 戸田先生による「寸鉄」。 | ||
09/01 | 講義部を教学部と名称変更。 | ||
11/01 | 「班長に与える」(青年訓)が発表される。 | ||
11/18 | 『折伏教典』が発行される。 | ||
12/10 | 戸田先生による「寸鉄」。 | ||
1945年(昭和20年)〜1951年(昭和26年)