1275〜1338年
西暦 |
年号 |
月日 |
御年 |
事跡 | 歴史 |
1275 |
文永12 |
04/ |
54歳 | 「兄弟抄」。 | |
建治元 | 4月改元。 | ||||
04/15 | 杜世忠(とせいちゅう)を正使とする元の使者が長門室津に到着。その後、鎌倉に召喚する。 | ||||
09/07 | 元の使者5名を竜の口にて斬殺し、首をさらす。 | ||||
1276 |
建治2 |
07/21 |
55歳 | 「報恩抄」。 | |
建治3 | 06/09 |
56歳 | 桑ヶ谷問答。三位房日行が竜象房と法論。四条金吾がこれに同席。 | ||
06/23 | 桑ヶ谷問答にて四条金吾が暴力沙汰を引き起こしたとの讒言が江間氏の耳に及び、法華経を捨てる起請文を書かねば所領を没収すると命じる。 | ||||
06/25 | 「頼基陳状」 | ||||
09/ | 江間氏、疫病にかかる。四条金吾が治療に当たり、快方に向かう。江間氏の誤解は解けるが、同僚からの嫉妬は更に強まる。 | ||||
建治4 | 57歳 | ||||
1278 |
弘安元 | 2月改元。 | |||
1279 |
弘安2 |
09/21 |
58歳 | 滝泉寺院主代・行智の策謀により事件を捏造。熱原農民信徒20名が捕縛。鎌倉へ連行される。 | |
10/15 |
熱原の農民信徒20名が、平左衛門尉頼綱の私邸にて拷問を受ける。神四郎、弥五郎、弥六郎の三烈士が斬首される(弘安3年説あり)。 | ||||
「駿河の国富士下方熱原郷の住人神四郎法華衆と号し平の左衛門尉の為に頸を切らるる三人の内なり、平の左衛門入道法華衆の頸を切るの後十四年を経て謀反を企て誅せられ畢んぬ其子孫跡形なく滅亡し畢んぬ」徳治3年(1308年)に日興上人が認められた御本尊の脇書き。 | |||||
10/20 | この前後、四条金吾が暴漢に襲われる。 | ||||
1281 |
弘安4 |
05/21 |
60歳 | 再び蒙古襲来(弘安の役)。(「蒙古襲来絵詞」) | |
1282 |
弘安5 |
09/08 |
61歳 | 身延を出発。常陸の湯(福島県いわき市)へ向かう。 | |
09/18 | 池上宗仲邸に到着。 | ||||
09/25 | 池上邸で「立正安国論」を講義。 | ||||
10/13 | 9月、湯本の温泉へ湯治に向かう途中、池上邸にて御入滅。辰の刻(7:00以降)。 | ||||
10/25 | 遺体を荼毘に付し、身延に至る。 | ||||
1283 |
弘安6 |
01/ | 日興上人、「墓所守るべき番帳の事」を定む。 | ||
吉田兼好、誕生。 | |||||
1284 |
弘安7 |
04/04 | 北条時宗、没。34歳。 | ||
05/27 | 幕府沽却(売却)の質地・所領の和与などに関する条規を制定。 | ||||
10/ | 日蓮大聖人の三回忌法要。五老僧登山せず。 | ||||
1285 |
弘安8 | 春 | 日向、墓参に来る。学頭職に任ぜらる。 | ||
1287 |
弘安10 | 波木井実長が謗法を重ねる。 | |||
1289 |
正応2 | 02 | 日興上人、身延離山。 | ||
1290 |
正応3 | 10/12 | 日興上人、南条時光の請いに応じ、大石寺建立。 | ||
1293 |
正応6 |
04/13 | 関東大地震。鎌倉の建物がことごとく転倒し、数千名の死者が出た。建長寺も倒壊炎上。マグニチュード7.1の直下型と考えられている。 | ||
04/22 | 平禅門(平頼綱)の乱。北条貞時が謀反を理由に、頼綱・助宗を初めとする93人を殺害。頼綱嫡子平宗綱は後に佐渡流罪。 | ||||
永仁元 | 日興上人、石川能忠の寄進をうけて北山に重須談所を設ける。 | ||||
1297 |
永仁5 | 永仁の徳政令。 | |||
1298 |
永仁6 | 02/15 | 日興上人、重須に移る。本六を定む。 | ||
1332 | 元弘2 | 05/01 | 南条時光、逝去。享年74歳。 | ||
1333 |
正慶2 元弘3 |
02/07 | 日興上人、逝去。享年88歳。 | ||
05/22 | 鎌倉幕府、滅亡。北条高時(31歳)以下の一門283人が東勝寺で自害し、火を放つ。 | ||||
11/15 | 日目上人、京都へ天奏に向かう途次の美濃の垂井(岐阜県不破郡垂井町宮代)で逝去。74歳。四十二度にわたる諌暁をなされた。 | ||||
1338 |
延元3 暦応1 |
| 足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を開く。 |
1275〜1338年